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亡父所持の手記 (児玉 紀恵子)
亡父所持の手記
児玉 紀恵子
児玉紀恵子さんの亡父である、鈴木 好哉(すずき よしや)さんのもとに残されたイラスト手記を掲載します。
本手記は、鈴木さんが、旧満州国において警察官の同僚だった勝田さんより、戦後提供されたものです。イラスト内の文章は原則として、そのまま掲載します。
※冒頭の数字部分をクリックするとイラストを見ることができます。
1.昭和二十年八月十日 正午頃
松岡信夫警視正は伏見警正と共に隊長室に幹部を集め緊急会議を開いた
我が東安(とうあん)警察隊家族を避難するため、小松と鈴木警長に引率(いんそつ)の命が下り
命にかえても引揚業務全(まっと)うを誓った
2.昭和二十年八月九日未明、ソ連軍は北満国境を突破し、国境警察隊 饒河(ぎょうが) 虎頭(ことう) 虎林(こりん)の一線警備隊は全滅の報に接し 我が東安警察本隊では十日払暁(ふつぎょう)、松岡隊長 伏見副隊長により本隊員の非常呼集、全隊員は本隊に集結 早朝より隊員幹部の緊急会議が行われ結果、隊員家族は今夕八時までに東安駅に集結し一先(ひとま)づ、哈爾浜(はるびん)警察局まで南下せよ。避難引率は堀篭監督警尉(けいい)、勝田、鈴木警尉補 引率業務は松島警長の四名編成にて避難引率業務の大任を受けた 四名は死守目的達成を誓った ※この日から地獄の逃避行になろうとは
3.昭和二十年八月十日午前七時より東安(とうあん)駅に集結
4.昭和二十年八月十一日 東安を離れて十時間ばかり。無がい貨車は鶏寧(けいねい)駅に向う。午后4時頃、突序ソ連機二機列車目がけて
5.それこそ忘れることのできない 昭和二十年八月十一日午後、鶏寧駅の中間。突序ソ連小型戦闘機2機 超低空で飛来 機関砲で反復銃撃 無抵抗の婦女子は数十名死傷者を出した
此のとき小松警長夫人死亡 柳井警長夫人左大胎部(だいたいぶ)烈傷(れっしょう)す
6.昭和二十年八月十二日夕刻 東安市警察隊員及(および)其の他家族の婦女子約七十八名は牡丹江(ぼたんこう)より南下できず軍の命令で列車編成まで一先(ひとまず)、牡丹江公園(2字不明)へ避難する事となり二十キロ北方の公園に向って
此の避難婦女子の中に堀篭警尉夫妻の姿は見えない (1字不明)系松島警長の姿はもうない
7.牡丹江病院
(3字不明)出産夫人一時入院す (1字不明)女二十七才 東安より脱出途中
産気づき女児出産す 昭和二十年八月十二日(2字不明)牡丹江病院に入院す
隊長夫人以下婦女子は三キロ離れた牡丹江公園近く 小学校へ避難
その頃 堀篭警尉夫妻の姿は見えず
午後九時頃 ソ連空軍により爆撃を受け、牡丹江病院入院中の私の妻子二人の下図の一時入院が最後で永遠の別れとなった
柳井警尉補夫人 右大腿部、列車内でソ連機機関砲にて烈傷 出血多量で死亡 乳飲子も死亡
8. (爆撃の様子、文章無し)
9.東安を出て十八日目 北朝 平壌(へいじょう)に着く 二週間正しい食事もなく 婦女子は空腹の極に達し 殆(ほとん)ど水や沿線の野菜や果物で命をつないだ 私は平壌駅より (4字不明)で朝鮮銀行に行き満州紙幣五元と朝鮮紙幣に両替 引返し平壌駅ホームのリンゴの売子よりリンゴを買込み 皆んな、蘇生の思いであった 忘れられない思い出であった
10.昭和二十年八月二十七日午後三時頃 東安署家族 松岡隊長夫人母娘二人をはじめ全員七十八名の婦女子 二十屯(トン)級の機関船の積荷の間に乗込む
出発は夕刻八時位だと思う (2行不明)
11.八月三十一日 舟は門司(もじ)港に着き 九州の方々を下船し 別をおしみつつ
九月一日下関に上陸し旅館に一応入り(7字不明)死亡せる 小松〇〇君三男坊の(2行不明) 鈴木勝田の両名で焼(6字不明)近くの小高いおかめ山に埋葬した
12.昭和二十年九月二日(3字不明) 山陽本線鴨方(かもがた)駅へ下車 小松〇〇君、〇〇君(兄弟)を連れ勝田自宅へ
13.昭和二十年九月二日午後一時 私の生家に辿(たど)り着く
14.引揚後月日は過ぎて昭和四十八年、二十八年前東安隊小松警佐の長男小松周治君が訪ねてくれました 〇〇君立派に成人して町役場の課長さんです 周治君と〇〇君と二人を連れ下車した同じ山陽線鴨方駅でした 私は既(す)でに五十九歳の老ぼれでした
(こだま きえこ 昭和16(1941)年生まれ)
旧満州国警察官と現在の日本の警察官との階級対照表
旧満州国警察官 |
日本国警察官 |
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警察庁長官 |
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- |
警視監 |
- |
警視長 |
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警視正 |
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警士 |
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